
2026年8月18日
この間、あるギャラリーの展示に伺った。
そこは、そこで展示をする絵描きさん達や、そこに来るお客さん達や、運営の人たちがわりと近い距離にいて盛んに関わっている場所で、新しい試みとして、購入した作家さんの作品を、購入した持ち主が、愛を持って次のひとに循環させていくことを模索していた。
作家さんもお客さんも顔見知りのなか、メリットやデメリットやそれぞれの立場の気持ちを、テーブルを囲んで話し合う場にお邪魔した。
購入した人たちは、また作品を買いたいけど家に飾りきれなくなってきた、当時の、作品を大切に思う気持ちに変わりはないけど、また別の場所でこれが生きたら…とか、
作家さんからしたら少しチクっとするなとか…
答えのない、まだりんかくがぼんやりするものをテーブルに置いて、みんなで囲んで
こちらから見たら綺麗だよ
こっちからはちょっと痛そうかも、
なんて話してるのが、とてもすてきな時間と空間とこころみだと思った。
この試み自体に、その日だけでいろんな人のいろんな意見が出てきてた。
対話を重ねることで新しい気持ちや新しい価値観がふえていく、個人的にはそのことにとても興奮した。自分はそうゆうことに喜びを感じるんだと思ったし、喜びを感じることに価値を感じる。
本当に良いものって、すぐわかるものじゃなく最初はよくわからなかったりピンと来なかったり、するように感じる。
でもなんか気になって気にかけている、依存とか所有でなく、おりにふれてなんか断絶されないで関わっていて、じょじょに
「あ、そゆことか」となってくる、
でも決めつけちゃいけないぞまた変わるかも、と、気にかけて観察がつづいていく。気づいたら少なくない時間を共有していて、好き、と思ってる。この試み自体がそうゆうもののような気がした。
物や時間に対しても、過去、そうやって自分は、数少ない好きなものをすきになって、抱きしめてきたとおもう。時々距離をとりながら、でもまた戻ると予感しながら。
写真、佐内さん、ポートランド、写真の仕事、など
それにいつか興味を失っても構わない。
作品のこと、手放されてしまうのを寂しいとか、傷つくと受け取る作家さんの言葉も聞いた。そりゃそうだ、とも思った。
作家側にたったとき、自分ならどうだろうとおもった。私は、作品の形態が「写真」だからというのもあるかもしれないけど、
私の写真は世界からのお裾分けと思ってるから、今の私は
「手放してもらっても何とも感じない」と思った。
6月に自分たちの「傘さす惑星」の展示をして感じたのは、誰がなんと言おうと私たちの作品を、私は、今は良いものと思っていて、だから見てもらえたら、とは思う。
誰かが気に入って買ってくれたものを、途中でピンと来なくなっても何とも思わない。
わたしだって、気に入って飾った自分の作品をある日きゅうに飽きて仕舞っちゃうことあるし。
だからってそれが大切でなくなったわけではない。
それにいつか興味を失っても、失われても、構わない。
距離を置く時間は余白や空気をふくむ時間だとも感じる。ぎゅっと目の詰まったものも素敵だけど、ゆるゆるに編まれた紐や布も、ふかふかで趣があって素敵なんじゃないかなと思う。いつか間違えてあけてしまった穴ぼこも、時間がたてばとくべつになるかもしれない。
おいた距離がもどらなくても、大切と思った時間や、大切と思ってもらった時間が嘘だとは思えない。自分も他人も、今の感覚を大切にするのが美しいと思う。たとえ少し寂しくても。
でも、いつだって自分の考えはひとつの意見でしかなくて、そうじゃないと感じる人もたくさんいる、というのはいつも忘れちゃいけないと思った。
ところで、そのトークを終えて、そのままその場所でビールやタルトやワインを囲みながらお喋りしていたテーブルで、詩人のコバトさんが、人前で私のことをかなり褒めてくれた。謙遜できる程の心当たりもなくて、
ピンと来てない、とビールを飲みながら言ってしまったけど、ありがたかった。一緒に傘さす惑星をしているコバトさん。
でもそれより、続けてコバトさんが言った
「島田さんの好きなものは実はすごく少ないんじゃないか」を聞いたときのほうに、心がぐらついた。えバレるの?と、いう気持ちと、バレちゃったな、と、コバトさんにならバレていいし、
傘さす惑星でお喋りしてる時やグループラインでは、いつのまにか核に近いものをさらけ出してたし、それを意味不明なほど理解してくれたタイミングが何度もあったから、そりゃバレるか。。とも思った。傘さす惑星も、そうやってゆっくりと輪郭をふちどっていく。


















