ふかふかの夜に。

本業はフリーランスのフォトグラファー。ここを日記のように使っています。誰かに見せたいものじゃなくて、自分が忘れたくない気持ちを置いとくところ。たまに写真や仕事のこと。

写真のこと、行き来について

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7月17日

ちょっとその木陰でそのことについて考えよう、

8人で一泊旅行に訪れていた淡路島で、ひとりで朝の漁港を散歩しながらそんな風に思った。まだ人がいない海沿いの小さな病院の駐車場、花壇に腰掛けた。蝉がないてた。

誰かのことをつよくおもってみたかった、そのことに気づいたのはとても最近のこと。とても個人的な自分を知って欲しいという情熱に似てる。

カメラを手に取った十代の頃「ひとりで沈んでいく音のない底」みたいな場所を私は持っていて、いつでもそこに行くことができた。そこは音もなく冷んやりとしていて居心地がよかったし、どこで誰と何をしていてもすぐに降りて行くことができた。

真夏の朝は蝉の声をききながら静寂を感じていたし、雨の日は救われた気持ちになった。わからないことがおおくて、世界は不確かで怖い場所だったけどそんな時はそこでじっとして過ごした。

きっと写真そのものだった。

 

おとなになってそれを仕事にし始めると、まわりにひとがふえて、みんながあの場所を持っているわけではないとも知っていった。

世界は鋭角と鈍角では計れないし、とんがった丸や前のめりの点は存在しないと知っていった。みんなとの世界で過ごす時間がふえた。

そのことについて誰かに言葉で話せるようになったのはさらにごく最近になってから。

自分で選べる、急かされない、どこまでも行ける予感。私にとって写真だけが本当で、ほとんどそれがあるから生きてたけど、あのままひとりでいるのはきっとよくなかった。孤独と孤立はちがう。

いまは周りにひとがいて、私はあの場所を知っていて憶えていて、懐かしんでいてまた行きたいと思ってる。でも、もう住み着いたりはしないのかもしれない。ポートランドのように。

何かコツのようなものを掴んだら、選ばないといけないと思ってた2つの場所を自由に行き来できるのかもしれない。地に足をつけすぎずにこの世界で生きていきたいとおもう。ちょっと遠くに来すぎた気持ち。

いつか詩人が言ってた「詩をかくことは現実とのかねあい」ということばは素敵だった。地に足がつきすぎてると感じる時、いつもそれを思い出す。

 

そこまで考えて、みんなで朝ごはん食べるから宿に戻ろう、と思った。真夏で、暑くて、雲ひとつない青空だった。静寂を感じてた。

今は目の前に、朝ごはん食べようと笑ってくれる人たちがいる。

物理的にも気分的にも、二拠点生活について考えたい。あらゆる行き来のことについて考えたい。どこにいても、自分で選べる、急かされない、どこまでも行ける予感、それをなくさないで今なら暮らせるのかもしれない。鋭角や鈍角でものごとを測って、とんがった丸や前のめりの点を、今なら冷静に、情熱をもって眺められるかもしれない。選ばないといけないと思ってた価値観さえ無くなっていくのかもしれない。

今も小さな行き来を繰り返してる。また写真とりたい。

最近、そうゆうことを考えざるをえない、人との関わり方が盛んに起こっていて、含蓄なタイミングで出会ったもんだななんて愛しむ気持ちで眺めてる。

もっと若い頃なら、取り乱してしがみついてたかも、とも思って、シンプルにこれは成長だ、と現状を結論づけて少し泣きながら笑ってる。

アラフォーになってもこんな心が残ってるのかー